S Anand · Talks
Day 2 · 2026年9月8日 · SUTD EN 全5日間 文字起こし
SUTD DAI シグネチャー・マスタークラス · エキスパート業界シリーズ · 5日間の2日目

「すごい!」の次は、「だから何?」

わずか1日で作り上げた成果物を披露するため、4人の学生が名乗りを上げた。月曜日には不可能に思えたハードル――「わずか1時間で動くアプリを作る」こと――は、全員がすでに軽々とクリアしていた。だが、その先にある、より高いハードルを越えられた者はまだ一人もいなかった。すなわち、「実際に誰かがそれを使ってくれるのか? そして、なぜ使うのか?」という問いだ。

リモート形式 · 自由参加の質疑応答クリニック · 2026年9月8日(火)
アナンド・S(Anand S)/ Straive イノベーション部門ヘッド · 文字起こし全文を読む

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ライブ録音 · リモート質疑応答クリニック
Day 2のハイライト(8コマ漫画)
この日のストーリーを描いた8コマ漫画:学生たちはアプリを素早く作り上げ、「うわっ、これを1時間で作ったの!?」と驚嘆される――しかし、その直後に本質的な問いが突きつけられる。「だから何? 誰が実際に使うの? そしてなぜ?」難しいのは機能を構築することではなく、真の課題、真のユーザー、真の用途を見つけ出すことだ。だからこそ、人にプロダクトを見せ、その反応を記録し、当て推量ではなくフィードバックに基づいて次に作るべきものを決めよう。AIなら作れるからといって機能を1000個も詰め込んではいけない。実際の利用から求められるものだけを追加するのだ。そして、耳の痛い問いを投げかけよう。「汎用AIアシスタントがすでにこれをできるなら、なぜこのアプリが存在する価値があるのか?」アプリが本格的にAIを組み込むと、デプロイ、共有、コスト、ログインといった新たな課題が生じる。だからこそ実験を並行して走らせ、失敗から学ぼう。クールなデモが本物のプロダクトへと変わるのはそうしたプロセスを通じてだ。検証し、役立つものにし、デプロイし、共有し、保護し、生身の人間とAIペルソナの双方でレビューする。

クリニックの全貌をイラスト化。 8つのコマが語るもの:「すごい!」という興奮はすぐに冷める。真の課題は機能の多さなどでは決してなかった。そして、クールなデモが本物のプロダクトに化けるのは、部屋の外の誰かがそれを実際に使い、その理由を語ってくれたときだけだ。フルサイズで開く ↗

シーン1

「うわっ、1時間でこれ作ったの?」・「あ、そう」

1日目は、あるひとつの宿題で締めくくられていた。「自分が作ったものを、この部屋の外の誰かに見せ、相手が何と言ったかを持ち帰ること」。火曜日のセッション――1時間の自由参加・リモート形式による質疑応答クリニック――は、アナンドが「誰かやってみた人はいるかい? どんな反応があった?」と問いかけるところから始まった。

トップバッターはKKだった。彼が1日目に作ったアプリはニュース要約アプリだ。課題で指定されていた「2人の学生に見せる」ことはできなかったため、代わりに両親に見せたという。

KK
「ええと、両親は少し触ってはくれました。一番響いたこと、いわゆる『うわっ!』という要素は、『えっ、これ1時間で作ったの?』という驚きだったと思います。でも、それ以外は『あ、そう』って感じの反応でした」

そのやり取りを聞いていたアナンドの反応も、最後に肩をすくめるところまでまったく同じだった。

「すごいね、なるほど、素晴らしいよ。ニュースの要約がものすごく素早く手に入る。それで……だから何? これで何をすればいいんだろう? 本当にこれを使うだろうか?」

―― KKの両親とまったく同じ反応を示すアナンド
KK · Singapore News Digest
claude.ai/code/artifact/e92a422b…
Singapore News Digest — KKのニュース要約アプリ。CNA、The Straits Times、Mothership、The Independent Singaporeの見出しをオフラインで要約して表示している 実際のアプリを開く ↗

このArtifactはClaude自身の共有ポリシーにより他ページへの埋め込みがブロックされているため、代わりに実際の画面のスクリーンショットを掲載している。実際に動くアプリを開く ↗

これは、何ひとつ失敗が起きていないからこそ、極めて示唆に富む瞬間だ。アプリは動いた。デモは成功した。漫画のコマ通り、期待通りの「うわっ!」という驚きは訪れた――そして、あっけなく消え去った。「感心させられること(impressiveness)」と「役に立つこと(usefulness)」は、まったく別の軸で測られる別物だと判明したからだ。「わあ、本当にすごいね」という驚きを通り過ぎた後、次に何をすべきなのか? この問いが、このセッションの残り時間ずっと議論の中心であり続けることになった。

問い詰められたKKは、誰もが陥りがちな一番ありがちな反射的反応を示した。

KK
「マネタイズ(収益化)を導入するとか?」
アナンド
「面白いね。つまり君が言っているのはこういうことだ。『何かを作ったけれど、役に立つかどうかは分からない。だから課金してみよう』と」 [笑い]

笑いが起きたが、その冗談の底には本質的な教訓が潜んでいる。「役に立つかどうか分からない」という根本的な問題を、マネタイズで解決することはできない。 アナンドの軌道修正は、そのオチよりもずっと穏やかだった――価格設定は後から検討する価値のある現実的な課題だが、今目の前にある問いへの答えにはならない。目の前にあるのは、もっと難しく、より上流にある問いなのだ。

「課題を見つけることは難しい。課題を言語化することは難しい。だが、課題が何であるかさえ分かれば、AIはその解決を手助けしてくれる」

―― アナンド

これこそが、この週全体のテーマをわずか2文に凝縮したものであり、漫画の第3コマに描かれている光景そのものでもある。真の課題(real problem)とラベルの貼られたクエスチョンマークの上に虫眼鏡がかざされ、その隣には真のユーザー(real user)真の用途(real use)という2つのパズルのピースが置かれている。そしてその脇のゴミ箱には、使われるあてのない、課題意識の欠如した機能の山が投げ捨てられているのだ。「作ること(構築)」はもはやボトルネックではない。だが、「何を作る価値があるのかを知ること」は、依然として最大のボトルネックのままなのだ。

シーン2

フィードバックを記録し、AIに丸投げせよ

次はヨハン(Johan)が画面共有を行った。アプリがインドネシア語表記であることをあらかじめ断りながら。それは彼もまた両親のために作った株式管理ツールだった。Yahoo Financeから取得したリアルタイム株価、取引履歴のCSVエクスポート、証拠金を自動計算するポジション管理機能、損益分岐点計算機、さらには感情的な衝動買いを防ぐためにいくら貯蓄に回すべきかを案内する「貯蓄プラン」機能まで備えていた。

その中には、作った本人さえ驚かせた機能もあった。

「これは用語辞典なんですが、面白いことに、AIに『僕は株式投資の初心者だ』と伝えただけで、具体的な指示は何も出していないのに勝手にこれを追加してきたんです。これには驚きました」

―― AIコーディングエージェントが指示なしで追加した用語集について語るヨハン
ヨハン · Lentera Bursa
lentera-bursa.pages.dev
Lentera Bursa — ヨハンが作ったインドネシア語表記の株価トラッカー。リアルタイムのIDX株価、ウォッチリスト、BBCAの銘柄詳細パネルを表示している 実際のアプリを開く ↗

「Alat hitung saham IDX」――IDX株式計算ツール。このホストも X-Frame-Options: SAMEORIGIN を設定しているため、ここには埋め込めない。実際に動くアプリを開く ↗

両親の実際のフィードバックは賛否入り混じるものだった。チャートの読み解きや将来予測といった一部の重要機能は、実装されていなかったり中途半端だったりした。彼が使用したモデルが「金融アドバイザーの資格がない」という理由で将来予測の出力を拒否したためだ。その一方で、誰も求めていない機能がインターフェースに居座り、画面を乱雑にしていた。ヨハン自身が「時に混乱を招く」と表現したように――不要なものが多すぎ、必要なものが足りていなかったのだ。

この「作られたもの」と「実際に使われたもの」のギャップこそ、アナンドがこのパートの残り時間を使って掘り下げた論点だった。彼の提示した解決策は2つの要素から成り、どちらも「机に向かって自分でうーんと深く考え直す」という人間の本能的な悪癖を迂回するものだった。

テクニック1
会議を録画・録音せよ。記憶に頼るな
「フィードバックをもらっている最中、相手が言ったことを聞き逃してしまうのはよくあることです。だから私は普段、TeamsやGoogle Meetなどを使って、できる限り映像付きで録画・録音を残すようにしています。そしてそれをClaudeやChatGPTに渡すのです。自分は10個のことを覚えているつもりでも、AIは自分が聞き逃していた別の5つのことを教えてくれるかもしれません
テクニック2
フィードバックに直接アプリを編集させよ
「自分の思考プロセスをショートカットして、こう言えばいいのです。『これがフィードバックだ。直してくれ』と。言い換えれば、あなたという人間を介することなく、ユーザーが直接アプリケーションを形作り始めるわけです」

アナンドはこの1つ目のアイデアを、単なる創業者向けのノウハウにとどまらず、今日から新社会人として働き始めるすべての人にとっての「デフォルトの行動様式」であると力説した。

「Straiveに入社するインターン生によく言っていることがあります。『ミーティングに参加したら、録画・録音を取りなさい。そこで自分の頭で一生懸命理解しようとなんてしなくていい。どうせ言われていることの半分も理解できないのだから。 ただその記録を持ってClaudeやChatGPTに渡し、「アプリを作れ」と指示すればいい。それだけだ。その過程で学べることはたくさんある。だが、多くの領域において自分たちがこれらAIシステムよりも物事を知っているなどと思い上がってはいけない。実際、知るわけがないのだから』」

―― アナンド

ヨハンは自然な流れとして、次の質問を投げかけた。自分がその場にいなくてもユーザーが問題を報告できるように、アプリ内にフィードバックフォームを追加すべきだろうか? アナンドの回答は、シーン1のテーマ――「簡単に作れること」と「役に立つこと」は別物である――へと再び立ち返るものだった。

「どんな機能を追加するのも極めて簡単です。フィードバック機能付きのバージョンを作るのも、外したバージョンを作るのも簡単。何をするのも簡単です。だとすれば、できることは何千通りもあります。文字通りAIに『1000個の機能を考えて追加してくれ』と頼むことだってできる。しかし、そのうちのどれが本当に役立つのかが極めて重要な問いになるのです。[…]何を追加すべきかは、実際の利用から得られるフィードバックからしか導き出せません」

―― アナンド

これは漫画の第5コマの内容そのものだ。チャート、通知、ダークモード、ソーシャルログイン、多言語対応といった、簡単に追加できる魅惑的な機能の群れに対して「ストップ」の手を掲げるイラスト。そこには「AIが追加できるからといって1000個もの機能を詰め込むな。実際の利用が引き寄せる(真に求めている)ものだけを追加せよ」というキャプションが添えられている。プロダクト開発における制約要因は、もはやエンジニアリングの工数などではない。「実際の使われ方が何を求めているか」を見極める判断力こそが制約なのだ。そしてその判断力は、コーディングとは異なり、誰かが実際にそのプロダクトを使っている姿をつぶさに観察することからしか得られない。

シーン3

なぜこのアプリが存在する価値があるのか?

次の志願者に進む前に、アナンドは機能一覧の議論の根底を揺るがす本質的な問いを投げかけた。誰もがブラウザのタブにChatGPTやClaudeを開いているこの時代に、そもそもなぜ専用のアプリを作る必要があるのか?

「いいかい、誰もがChatGPTを持ち、誰もがClaudeを使える。君がアプリケーションを作れるように、彼らだってまったく同じ手軽さでアプリケーションを作れる。では、なぜそもそもアプリケーションが必要なんだろうか?

―― アナンド

彼はヨハンの作った領域を例に、具体的に語った。ClaudeやChatGPTに直接「次に何を取引すべき?」と尋ねるだけで済むとしたらどうだろう? どこかのスプレッドシートにポートフォリオの記録を付けさせ、関連すると思われる市場データを勝手に取ってこさせればいい。アプリなど一切不要だ。

「私たちは特定の機能に特化した専用ソフトウェアを使うことに慣れすぎていて、今や大半のソフトウェアの仕事を代替できる汎用ソフトウェア――ClaudeやChatGPTなどの少数の存在――が手元にあることを忘れがちです。ニュースの要約が欲しければ、ChatGPTに行って『ニュースを要約して』と言えば、同じ要約を返してくれます。なぜそのためにわざわざアプリが必要なんでしょう? これはアプリを作ってはいけないと言っているのではなく、同様の能力がすでに他所で手に入るのだから、なぜ『この』アプリが他と違っていて有用なのかを考え抜かなければならない、ということなのです」

―― アナンド

これはセッション中で最も鋭い視点の転換(リフレーミング)であり、KKのニュースアプリ、ヨハンの株価トラッカー、そしてこの先教室の全員が今週作るであろうあらゆるアプリを、たったひとつの試金石にかけるものだった。漫画の第6コマでは、これが左右の対比として描かれている。左側には専用アプリの強み――厳選された情報、洗練されたビジュアル、単一のニッチ領域への特化。右側には、すでに何でも要約し、分析し、比較し、対話できる汎用AIアシスタント。その下に添えられたキャプションは、妥協を許さない。「単なる複製ではなく、差別化せよ」

シーン4

共有できなかったアプリ

次に発表しようとしたクリストファー(Christopher)は、アプリの説明を一言も口にする前に壁にぶち当たった。共有リンクがグレーアウトして押せなくなっていたのだ。彼が作ったのは、自らAI VCと呼ぶアプリだった。ピッチ(事業提案)をブラッシュアップするためのコーチングツールで、会話の途中でClaude自身を使って創業者の回答を評価し、突っ込みを入れるというものだ。だが、Claudeはその成果物を一般公開させてくれなかった。

見ていたヨハンは、前日の自らの開発経験からその兆候に気づいた。Claudeの規約では、ファイルのダウンロード機能を提供するArtifact(成果物)は作成者以外と共有できない仕組みになっているのだ。ヨハンの場合は、その問題をClaudeに伝えて「ダウンロード」を「エクスポート」に変えさせることで、プロンプト1回で解決していた。しかしクリストファーのケースは違っていた。ダウンロード機能が原因ではなく、「AIイン・ザ・ループ(アプリ内部でAIを呼び出してリアルタイムに評価させる構造)」そのものがArtifactを共有不可にしていたのだ。しかもコードをVercelや他のホスティングサービスに移そうとしても、エクスポートされるのは単なるHTMLだけで、裏で動くはずのアプリケーションロジックは移行できなかった。

クリストファー
「僕のアプリは要するにAI VCのようなものです。[…]ピッチを磨く手助けをしてくれます。ユーザーが[話した]内容を評価するのに、Claude自身を使っているんだと思います……」
アナンド
「なるほど。で、それをどう解決しようか?」
クリストファー
「まったく見当もつきません。AIに聞くことはできるし、実際聞いてみたらここにいくつかの選択肢を出してくれたんですが、どれを選べばいいのか分からなくて」

アナンドの答えは単なる修正方法の提示ではなく、その状況の持つ意味を再定義するものだった。

「それは素晴らしい状態だよ。なぜなら君はまたしても、解決する価値のある課題を発見したのだから」

―― ライブ講義中に壁にぶつかった状況について語るアナンド

ここから、「自分で決定するのではなく、委任することによってデバッグする」実践チュートリアルが始まった。クリストファーがあらかじめ答えを知っている必要がまったくない、4つの連続したアプローチだ。

まだ理解できていない課題を攻略する4つの手法
  1. 対話を分岐させる。 「好きな時点を選んで、別々の会話を走らせることができる。『アプローチAを試す』『アプローチBを試す』『アプローチCを試す』というようにね」
  2. 分岐を並行して走らせる。 「『実験Aを実行して』と指示する。それが走っている間に実験Bを実行し、さらにその裏で実験Cを実行する」
  3. ブラウザの操作権限を渡し、邪魔をせず任せる。 「AIにブラウザのコントロールを任せてしまうんだ。NetlifyやVercelにログインしてアカウントを作る必要があるなら、『勝手にやってくれ』と言えばいい。[…]自分でいちいち判断を下すのを避けるんだ。任せて走らせておけばいい。どうせ見守っているのだから、もし望まない挙動をしたら、いつでも止められる」
  4. 伝え忘れていた制約を踏まえて再設計させる。 「『簡単にデプロイできるようにゼロから作り直すとしたら、どう作る?』と尋ねる。あるいは、冒頭に『これを他の人と共有できるようにしたい』という一文を付け足して最初からやり直すんだ」

これら4つのアプローチに通底するのは、シーン2で示された教訓と同じだ。「ツールよりも賢く立ち回ろうとするのをやめ、ツールが自律して走れる余白を与えること」。クリストファーのバグが実際にどう直ったか以上に重要だったのは、教室にいた全員が、今後現れるであろう「一見解決不能に見える課題」に対処するための汎用的な手法を手に入れたことだ。

アナンドはこのエピソードから2つの教訓を引き出し、クリストファー個人だけでなくクラス全員に向けて語りかけた。

レッスン1
AIイン・ザ・ループのアプリは強力だが、リリースの難易度も跳ね上がる
「アプリケーション自体の内部処理としてAIを組み込めば、より強力なユースケースを生み出せます。しかしそうなると、次のような問いが浮上します。『どうやって、どこにデプロイするのか? コストがかさみすぎたらどうする? 費用は誰が負担するのか?』
レッスン2
デプロイそれ自体が、極めて興味深い設計課題である
「ユーザーにログインを求め、その行動を追跡し、場合によってはAPIキーを安全に保持しなければならないような複雑なアプリケーションを、どうデプロイするか? そうしたことこそが面白くなってくる部分です。限界を押し広げてください。

彼は、水曜日のチェックポイントを決定づける宿題を提示してこのパートを締めくくった。それは「何がうまくいったか」ではなく、その正反対の問いだった。

「明日みんなと顔を合わせたときに、ぜひ聞きたいことがひとつあります。それは『どんな失敗をしたか? 試してうまくいかなかったことは何か?』ということです。できる限りたくさん持ってきてください。なぜなら、私たちはそこから集団として学ぶことができるからです。[…]最終的に成功したとしても――AIはどこでミスをしたのか? あなたはどこで介入せざるを得なかったのか? なぜエージェントにやり方を変えるよう指示しなければならなかったのか?」

―― アナンド

クリストファーの「共有できないArtifact」を筆頭とする失敗の数々が、成功体験とまったく同等の重みを持つ「カリキュラムの本質的な生教材」へと昇華した瞬間だった。

シーン5

2つの言語で見る、コーチの視点

最後の志願者は、アナンドがまだ名前を把握していなかった学生だった(ミーティング画面には学生IDしか表示されていなかった)。彼はそのまま画面を共有した。イングランド・プレミアリーグの2025–26シーズンにおけるシュート位置のマップだ。全20チーム、全選手のデータが、どの位置からのシュートがどれくらいの確率でゴールに結びついたかとともにプロットされていた。

彼は日本語で発表を始め、留学生に同行していた東京都市大学の客員教授、宿貴之(Takayuki Shuku)氏が通訳を務めた。

航成
「僕はこのサイトを作りました。…イングランドのプロサッカーリーグ、プレミアリーグにおけるシュートの位置とゴールの可能性の関係を示したものです」
「僕はこのサイトを作りました。プレミアリーグ(2025–26シーズン、全20チーム、全選手)におけるシュート位置とゴールの確率の関係を示しています」

アナンドの反応は即座かつ具体的だった。コーチならこれを心から役立つと感じるはずだ。 だが、自分の次の発言を誰かに通訳してもらうのを待つ代わりに、彼は教室の誰も見たことのない試みに打って出た。ChatGPTの音声モードを起動し、リアルタイムに通訳させたのだ。

アナンド
「このアプリケーションはコーチにとって本当に役立つと思います。実際のコーチに見せて、実践的に使えるかどうか確かめてみるといいでしょう。誰か見せられそうなコーチを知っていますか?」
ChatGPT(音声)
「アプリケーションはコーチにとって本当に役立つと思います。…それを見せられるコーチを誰か知っていますか?」
航成
「えっと、僕自身が紹介できる実在のコーチはいないんだ。ただ、もし実際に試すなら、サッカーやバスケのコーチ、学校の部活コーチ、パーソナルトレーナー、スポーツアナリストなんかが良さそう」
「個人的に紹介できる本物のコーチはいません。でも実際に試すなら、サッカーやバスケのコーチ、学校の部活の指導者、パーソナルトレーナー、あるいはスポーツアナリストなどが適任だと思います」

この瞬間がいかに異様なものであったかは、文面だけでは見落とされがちだ。生講義の真っ只中に、台本もない音声AI通訳が、プロダクトへのフィードバックに関する講師のアドバイスをリアルタイムに異言語へと翻訳していく――人間が通訳するのを待つよりもその方が速いから、という理由で。受講生たちが学びに来ていたはずのそのツールが、講義そのものを静かに回し始めた瞬間だった。

宿教授が割って入り、航成が実際に作ったものと、それが誰のためのものなのかを明確にした。

宿教授
「彼はまだそういった(ユーザーの)ことまでは考えていないと思います。これは純粋な統計データですね」
アナンド
「まったくその通りです。ですが、これは誰にとって役立つのでしょうか?」
宿教授
「なるほど、基本的にはコーチやチーム、あるいはチームのディレクター陣ですね」

アナンドの最後の提案は、このやり取りをこの日のメインテーマへと結びつけた。「成果物(Artifact)」から「プロダクト(製品)」への移行とは、コードの変更ではなく、視点の変更なのだ。

「頭の中でコーチの帽子をかぶってみるのです。『自分ならこれをどう使うか?』と考え、具体的な提案をしてみる。『チームに数人の選手を加えよう』『この選手たちにはここからプレーさせよう』『この選手はあるエリアで強みを発揮するから、そちらサイドにパスを集めよう』といったように。言い換えれば、それが実用的な価値を持ち始めたときこそが、プロダクトへと変貌する瞬間なのです

―― アナンド
シーン6

AIにAIをレビューさせる

セッションが終わりに近づいた頃、KKがひとつの質問を投げかけた。「なぜこのアプリが存在するのか?」という議論以来、ずっと頭の中で温めていた疑問であることは明白だった。

「ちょっと待ってください、ひとつ思いついたんですが……さっきAIとおっしゃいましたよね? このアプリをChatGPTか何かに渡して、そのAIに評価してもらうことってできますか?

―― KK

アナンドの回答は完全な「YES」だった。そしてすぐさま、その評価を真に実用的なものにするためのテクニックを伝授した。漠然とした感想を求めるのではなく、「独自の視点(ペルソナ)」を割り当てることだ。

「もちろん! それに、異なるペルソナ(役割)を演じさせることだってできますよ。たとえばこう指示するんです。『サッカーのコーチとして振る舞って、このアプリをレビューしてくれ』『熱狂的なサッカーファンとしてレビューしてくれ』と。さらに『他にどんなペルソナが考えられるか?』と尋ねてみるのもいい。するとAIは『メディア企業やスポーツ専門チャンネルの立場はどうでしょう』と答えて、スポーツチャンネルの視点でレビューしてくれるかもしれない。アンケート調査のようなことだって、ビジネス戦略の立案だってさせられます」

―― アナンド

彼は過剰な期待を抱かせることもしなかった。能力の低いモデルではペルソナになりきる精度が甘く「不正確だったりイマイチだったりするかもしれない」と指摘した――「より賢いモデルのほうがうまくこなすでしょう。クレジットに余裕があるなら、AstraやFableあたりが最高の仕事をしてくれるはずです」。だが、たとえ完璧でないペルソナレビューであっても、まったくレビューされないよりは遥かにマシだ。そしてそれは、生身の人間を置き換えるものではない。

「完璧ではないかもしれません。だからこそ人間のフィードバックが重要になります。それでも、AIはこの手のレビューにおいても極めて優れた力を発揮してくれます」

―― アナンド

これは、シーン3の「なぜこのアプリが存在するのか?」という問いと見事な円環を描いて結びつく。汎用AIがすでにあなたのアプリと同じ仕事を行えるのなら、別の帽子をかぶせることで、あなたのアプリの仕事を批評することだってできるのだ。専用アプリの存在意義を脅かすその同じ能力が、教室の誰もが即座に揃えられる「史上もっとも安価な品質評価(QA)パネル」にもなるのである。

火曜日から水曜日への宿題

アナンドは、次のチェックポイントで確認したい事項を正確に挙げてセッションを締めくくった。そして注目すべきは、その中に「機能をもっと増やせ」という項目がひとつも含まれていなかったことだ。

  1. アプリをさらに数人に見せること。そして今回は、後からフィードバックを思い出そうとするのではなく、録画・録音(可能なら動画)を残すこと。
  2. エージェントに通常と異なる指示や追加の指示を出さざるを得なかった場面、およびその理由について報告すること。
  3. 特に「失敗」について報告すること。完成したものだけでなく、何がうまくいかず、何を諦めたり作り直したりせざるを得なかったのかを報告すること。
  4. 水曜日の必須チェックポイントの核となる転換(ピボット)に向けて準備してくること:「アプリが正しく動いているとどうやって知るのか? どうやって検証するのか? どうやって役立つものにするのか? どうやってデプロイを進めるのか? どうやって共有するのか? どうやって保護するのか?」

それまでの質問は [email protected] へ送ってほしいとアナンドは伝えた。学生たちが英語や日本語で一人また一人と退室していく中、チャット欄にそのアドレスが投じられた。

参加者たちが披露し合ったもの

4つのアプリ、4つの教訓

Day 2からの8つの学び

2026年9月8日(火) · SUTD · 1時間、リモート、自由参加

01
「すごい」と「役に立つ」は違う。
教室内のどのアプリも「人を驚かせる」ハードルはクリアしていた。だが、その先にあるより高いハードルを越えたものはまだなかった。「すごいね、なるほど、素晴らしい……で、だから何?」という問いこそが、デモとプロダクトを分かつ境界線だ。
02
「有用性の欠如」をマネタイズでごまかすことはできない。
アプリをより役立つものにするにはどうすればいいかと尋ねられ、真っ先に出た反射的な答えは「マネタイズの導入」だった。値付けをする前に、真の課題を見つけること――そして、その課題を見つけることこそが最も困難なのだ。
03
すべてを記録し、記憶に頼るな。
「どうせ言われていることの半分も理解できない」。会議を録画・録音し、その記録をClaudeやChatGPTに渡して、自分が見落とした5つの指摘をAIに炙り出させよう。そして、そのフィードバックに直接アプリを修正させるのだ。
04
1000個の機能は、1000個のノイズになる。
今やどんな機能も簡単に追加できる――それこそが危険なのだ。何を追加すべきかは、実際の利用から得られるフィードバックから導かれるべきであり、AIが可能にする機能のブレインストーミングから生まれるべきではない。
05
なぜそのアプリが存在すべきなのかを問え。
今や誰もがChatGPTにニュースの要約や資産ポートフォリオの管理を頼むことができる。「なぜこれが他と違っていて有用なのかを考え抜く必要がある」――チャット画面をただ模倣するのではなく、明確に差別化せよ。
06
1人でデバッグするな――分岐させ、並行して走らせ、委任せよ。
一見解決できそうにない共有エラーに直面したら、対話を分岐させて複数のアプローチを並行して試そう。一歩一歩自分で判断を下すのではなく、エージェントにブラウザの操作を委ねてしまうのだ。
07
アプリ内部にAIを組み込むと、可能性もハードルも跳ね上がる。
プロダクトの「内部」でAIを動かせば、より強力なユースケースが開かれる。だが同時に、より困難な問いが突きつけられる。デプロイ、コスト、ログイン認証、費用の負担者。 それでも、限界を押し広げ続けよ。
08
ペルソナを与えて、AIにAIをレビューさせよ。
「サッカーのコーチとして振る舞い、このアプリをレビューしてくれ」。独自の視点を与えることで、ありきたりな感想が実用的な批評へと変わる。それは生身の人間の代わりにはならないが、あなたが今すぐ招集できるもっとも安価な評価パネルなのだ。